昭和42年12月8日 朝の御理解
今朝私、お夢の中に久富先生がある人に御理解をま、説いておられるという、久富先生のいうとられる事で目が覚めた。どういう事をいうとられるかというとおかげを受けなければならんから教えを守るというのは本当なこっちゃない。その教えが身につかなければだめだという様な意味のことを、ま、懇懇と説いておられるところだった。おかげを頂かなければならんから教えを守る。おかげを頂いてしまうともう教えを守らんごとなる。教えがいわゆる血に肉になりして教えを守れと言わんでも守っておる私にならなければならないということだと思うんです。
私もそれを最近特に痛感することがございますけれどもここで皆、お父さんお母さんが信心なさっておられると必ず子供達が信心になる。その信心になる子供達が何かの機会に本気になって信心をさせてもらう。本気になって信心をさせて頂くといわゆる教えが身についてくるわけですねえ。こりゃまあ信心は一生ご修行と仰せくれますし又、一生かかっても求めぬいていかなければならないものなんですけれども、ある程度ここまでは信心が分かりたい、ここまでは信心をお互い頂いておきたいというところがございますですねえ。
それを私はあの最近ここからこの御信者さん方の師弟の上にそれを感じるのです。今あの毎朝佐賀から波多野さんの娘さん紀子さん、子供連れて毎朝参ってまいります。あちらの佐賀の方から来るバスの一番で参りまして丁度ご祈念が終わって皆さんが帰る頃帰ってしまう頃ここへ着くんです。もうここ一週間ばかり頂いております。やはり娘時代に本気でここでしばらく修行もさせてもらうし、本気でこの信心を頂いておる。それで嫁入ってからでも信心が疎遠になっておりましたけれども、何かということその心が神様へ向かう。今度も子供が生まれて七ヶ月になっとりました。どうもその弱弱しそうにこう寝たごたる風にして「こりゃどうした風ね」と私時々参ってくる時に青しい顔しましてねあの一人(?)それがそのお母さんは大体看護婦しとりましたからね、色々わかるんですよ。
こりゃ本気になってこりゃおすがりしなければこの子がこのままでは病弱な子供にで育ったんではというので、又、本気になって一週間ばかりお参りさして頂いとりますわけですけれどもね、ところが毎朝その起きらんならん時間には子供はひろ子さんといいよりましたね。そのひろ子さんが目を覚ましてから起こす。そして、ここへ参るようになりましたらもう、機嫌のようなったこと機嫌のようなったことですねえ。
もうバスの中でも皆そのバスに乗っとる人達にそのこう何ですか話しかけようごたる風で皆がかわいいかわいいというてその、言うて下さる。自分も機嫌がよいここへ来てもとてもよい機嫌をしてる。そして最近はですね、もうこうほっぺたが赤くなってねえ、その(?)なってそしてとってもそのもう一週間くらいでそのみちがえる様に元気になっていくんですね。私が神様にちょっと向かうと子供がこんなにおかげを頂くのに私が不信心であったからとこういうわけである。それがですねえ、娘時代にその神様を信心を頂いておる、して、信心を頂いておって信心を頂くという事は教えを頂いておる。その教えを身に付けてこういう風になればこうなるという風に神様をはっきり頂いておる。おかげを頂けれるという神様をつかんでおる。昨日も東京の小西さん、小西すまこさん、鳥栖の上野さんとこの娘さんです。手紙が参っとります。その手紙をお母さんが持ってお礼をしてきとりますが、先日から色んなやはり難儀悩みがあった。それで親先生のご理解を頂いてくれということであったから、お願いに来てそれで御理解を頂いた。ご理解をめますことなくそのことを言うてやってもう、その手紙を受け取って読ませて頂いた。
途端に心が開けてきた。もうお母さん分かります。と分かりましたち。もう、この様におかげを頂いとるとこういうのである。もうその手紙が来たもんですから、お母さんが早速ですね、あーして月に年に一回ですか、必ずかえってまいりますですが、ま、一月、なら一ヶ月おちますから毎朝やはり鳥栖から参ってくる。
主人と一緒だったから主人も連れて参ってくるです。ありがたいなあ、ここの御信者さん方のいわゆる知ってる娘さん達、娘に限ったことではないのですけれども、自分が嫁っとる嫁っとる先にも主人までお導きがでけて、そして遠く離れておってもいわゆる難儀なら難儀が起こってくるとお取次ぎを頂いてご理解を頂いてくれと頂いたら途端にそのはあーそうじゃったと分かるだけの信心が娘にでけておる。だからここまでは信心を頂いておきたい。ここまでは信心を頂かせておきたい。というわけなんです。昨日、一昨日でしたか、北野に御大祭にお参りさせて頂いとりましたら、後から中村さんところの恵美子さんですもん、月何回かお参りをしてくるんです。もうこの人たちがですね、もうお参りをしてくるとおかげを頂くと確信してるんです。もう子供の事、何かの事にもですね、お参りさえすりゃおかげを頂くと娘時代にその信心を頂いていわゆる神様の働きというものをつかんでおるからです。これも昨日一昨日でした、善導寺の茂さんの陽子さんが今日はお店を休ませてもらいましたからというてからお礼に出てきてから、そこでそのお話をいたしますことですね、先生最近、あのさえこがここへ修行さして頂いてむつやの田代さんの一番下の娘、もう先生みちがえる様なその信心、私がびっくりいたします。ちょうどこちらへ、店のほうへ帰ってからおねえちゃま、もう本当に神様ちゃ生きてござるねちいうてから、もう何か話しかけにゃおられんごたるもうさえこのおかげでこの頃生きた神様を薄らいでいきよる。私に生きた神様を注入してくれる、注射をしてくれるようにその生き生きした話をしてくれます。とこういうここにどのくらいでしたかね、しばらく修行させてもらいました。ねえ、頂くところをびちっとこう頂くわけなんですねえ。そして生きた神様を例えばその合楽で御用させて頂いとるうちんでもです、もう実に見事に神様を頂いていて、これでその誰にでも話したいわけです。ですからむつやに帰っては陽子さんに掴まえてはそのそうした話をつるとこういうて、いうておりました。本当にいくら親がおらんでも親が良い信心を残しておってくれた、そして本人が本気でここまで信心を頂こうという気になったらもう陽子さんあんたどんがどこへこの人を又お嫁さんにやっても安心じゃねえ、これだけ信心を頂いておりゃというた事でした。ねえ。もうそういう例をあげれば限りが無いほどにですね、いわゆるお父さんやらお母さんの信心が子供に継承されていてねえ、子供に信心が継承するという事が非常に最近御道の信心じゃ問題になっとります。親の信心を受け継がんのです。それが教会であってもその教会の師弟がですねお父さんの後を継ごういわないという教会が大変多いわけなんです。
二代目はどうするかといったような問題が問題となってとりあげられておるという中にです、かば目ではこれだけはおかげ受けておる。椛目の一人が信心をする様になると必ず家族をあげて信心する様になってくる。それはどういう事かというと本当の神様の働きというものがですね、そのいわゆるキャッチするですがねえ、掴むわけです。ですからその教えが段段身についてきますからですねえ、もう言うことがする事が物の見方が全然変わってくるのです。ねえ。一つの物の考え方でもです、情けない情けないと思うておったのがです、御理解を頂くとです、ふっと蘇ってくるものはです、情けないその元を正してみると自分の心の中にあったんだと気がついて途端にもう助かってる。ほんなこと、人じゃなかったたい。自分じゃったたい。と言う風に分かる。だから私はここの信者の特にですね皆さんこうやって信心の朝参りをするからには熱心な信心を頂いとるわけなんです。その熱心な信心がです、本当にそういう風に子供達に伝わっていくということがです、有難いしかも伝わっていくならばそこまでは信心を教えておきたい。というよりもそこまでは信心を身に付けさせておきたい。私はこれが一番有難い。夕べも秋山さん達が親子でお参りをします。今日ここで八時半から結婚式がこざいます。
それで夕べそのお供えやらそのあしたの打ち合わせやらの為に夕べ参ってきておるのです。で、私は事務所でしたから事務所で親子ではなすことです、今の話をするんです。ここでなにか有難いというても、ならあの、今度、今日結婚いたしますとも子さんという姉さんが悌子さん悌子さん(?)がやはりそうでございます。皆さんもご承知のようにもう本当に自分の信心が主人に伝わっていく、島野さんにねえ、月並祭にはもう島野さんだけではなくてから、その島野さんの実家であるところのお父さん達お母さん達兄弟達まで参ってくる。しかもなんとも言えん信心になっていくわけなんです。いわゆる悌子さんの信心、娘時代に頂いとった信心がいわゆる何が何というてもどげな素晴らしい嫁入り道具を持たせてやるでもです、よりも信心を持たせてやっとる、そこにですね、昨日も鳥栖の上野さんが言っているんです。もうどんな事を言って参りましてもいよいよの時にはあの人は信心を持っていっとりますことによって、私共夫婦は安心いたしとりますとこういうねえ、娘の信心を持っていっておる。しかも合楽の信心をこれだけ頂いておるというところがです、ねえ、ここを私共は安心しておるとこういう親が安心して外へやってくれる、安心して嫁にやられる。どういう例えばその道具をもったしてやるよりも信心を持たせてやると言う事が一番安心であり有難いであり、そこまではそこまでは安心がでける。そこまでは一つ子供達に信心を教えてゆきたい、分かっとってもらいたい。もう本当に今の例をいうたら限りがないですよ。本当に。ここでは娘達が信心をもっていっとる、おかげを頂いておるということが事実つである。現に頂いておるという事実は最近波多野さんところの、のり子さんなんか毎朝参ってきてです、とにかく親、親の考え自体が二人みるくらいその、通って通い出しますと。自分でこれを確信している。いよいよの時には合楽にお参りさして頂けばというのです。子供がもう本当に見違えるように健康になっていくだけではなくて、一日機嫌ようしておる。まあだ七ヶ月のまんまんちゃんに参るのをいやといわんのですよ。けれども神様が子供を使うてちゃんとその時間には起こして下さって機嫌ようしてそのお参りをしてくるとこうもう、その楽しみというか信心の喜びというものを毎朝参ってきてはここで信心をさせて頂いとったということのありがたさをここでお礼を申し上げるんですねえ。そこに私が思うんですね、これはほんなら娘が皆さん自身もやっぱそうでなからにゃならない。ここまでは信心頂いときたい、というのはそのどこ、どこへんのことかと私は思うのですねえ。問題はですねえ、ですからこの付け焼刃の信心ではとれやすい、そうぞその身から打ち込んでの信心をしてくれと御理解下さっとります。ですからですね、子供達でも何かの機会にその娘なら娘がです、その身から打ち込んで信心がでけれる様なき会を願わなきゃできないということ、これは私共でもそうである。
その身から打ち込んでですおかげは頂かんならんけん一生懸命参りよるというのじゃなくてです、おかげに打ち込むのじゃなくて本当に信心を身に付けとかなければならん。本当に信心を頂かなければならんというて、その身から打ち込んだ信心にならせてもらう時です、ここに生き生きとした神様を頂くことが出ける。おかげば頂かんならんから、今日久留先生の御夢の中の話ではないですけども、おかげば頂かんならんから教えを守るというのではです、まあだほんなこつじゃないですもんねえ。とその教えが自分のものにならなければ血に肉にならなければ本当な事じゃないと。その本当なものになる為にはどうでもその身から打ち込んだ信心というのがいわゆるそれを現代的にいうならです、その各々が自覚に立つということなんです。本気で信心を頂いとかなければいざという時に驚かんですむという信心を、いざという時に迷わんですむという信心ね、本気でその信心を頂いとかなければという自覚に立って教えを頂く、おかげは頂かんならんけん教えを頂くのじゃなく、そういう私はあの、今私が例をあげて申しましたその娘さん、又、現在嫁になっておりますその人達の例をです嫁時代にそういう自覚に立って合楽の信心をここまでは頂いておるといういわゆる頂いておるのですから、それが尊いのです。それが有難い。もちっというならばどういうことかというと、神様の有難さが分かるだけではなくても、神様のいうなら怖さも一緒に分かっておるということなんです。それは又もう少しです、いうならです、この神様は一心に願えばおかげ下さる神様だというだけではなくてです、ねえ、おきづけをおきづけと気が付かせてもらえれるだけの信心。ぽっとおきづけを頂くとはあーこの頃ご無礼しとるけんでというその心が湧いてくる。心が神様に向かう。下の方へ沈んでおった教えがこう蘇ってくる。そこにその人が助かっとります一言で(?)頂いたりはあ、先生そうでした、とすぐ分かるだけのものをそのご理解でいうならその娘時代にこの人達が身に付けておったという事がありがたい。そこには親の安心が続いてあるわけなんです。
信心をそこまでは頂いておきたい。ねえ、今日、その秋山さんにも夕べそのことを申しましたんですけれども、とも子さん何が一番有難いというても、ねえ、あんたが信心を持っていきよるという事が一番有難いとばい。何をお礼申し上げるより何よりもねえ、本当に合楽の御広前で信心の稽古させて頂いて、頂いておったもの、頂いておるもの、これをもってお嫁に行けるという事がありがたい。
親がどれだけ沢山の躾をしてくれたというても、何の躾よりも本当にお父さんお母さんが信心の躾をしておって頂いたということがです、本当にありがたいことでしたと本当に後で分からせて頂いてもらえれるおかげをですね、これから表していかにゃならんというてお話したことでございますけれどもね。これはなら子供達だけのことじゃない。まず親自身いわゆる皆さんここにお参りしておる皆さん達自身がです、そこまでは頂いておきたい。そこまでは信心を自分のものにしていきたいというにはです、はやりどうでも一つ信心の本当の信心のいわゆる難儀に触れたもの、そこんところを頂く頂きたいというところを自覚に立ってお互いの信心をさしてもらうということになるのですから、そういう信心を身に付けていく。しかもその信心というのはもうそれがかぎりがないのです。ねえ。これをお徳と頂くという事になってまいりますとです、その信心がいよいよ追求されなければなりません。いよいよ精進が伴わなければなりません。そこに信心の限りない有難さを限りない楽しみが又、あるわけですねえ。
どうぞ